Paginas WEB oficiales de la Cantaora flamenca " Manuela la Naranjita"
フラメンコ歌手 マヌエラ・ラ・ナランヒータ  オフィシャルサイト


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芸名継承の経緯



偉大なフラメンコ歌手 Naranjito de Triana が亡くなったのは、2002年の春の事でした。
短期間、セビリアに滞在してNaranjito先生のレッスンを受けようと、
私が現地についたのはそのほんの数週間前、
Naranjito先生がマドリッドで突然体調を崩し入院した直後の事だったのです。
その後のご家族の献身的な看護にも関わらず、ほとんど意識も戻らないまま、
2002年4月Naranjito de Triana は神のもとに召されました。

Naranjito de Triana 先生に初めてお会いしたのは、1999年1月でした。
その頃、先生は1998年夏に胃がんを患い大手術を受け、
それまでセビリアのフラメンコ芸術学院で務めていたフラメンコ理論クラスを娘ペパに託し、
自宅療養中でしたが、生徒達の熱烈な要望に応え理論クラスに顔を出した時の事です。

その前年の10月から、私はペパの理論クラスに参加していたのですが、
当時、まだ理論を教え始めたばかりだったペパは、
全くの初心者である生徒達からの唐突な質問を受けて困惑するたびに、
”父に聞いてくるから、次回のレッスンまで待ってて。”と答えていました。
そして、次のレッスンの時には、まるでその質問した生徒の心の中が見えているような答えを、
父親であるNaranjito先生から預かって来ていたのです。

当時、私はカンテの勉強をセビリアで始めてはいたものの、漠然とした悩みにぶち当たっていました。

カンテの勉強ってどうしたらいいものなのか? 
必死で勉強しているのにちっとも上達しないのはなぜなのか?
そして、何よりも カンテとは一体何なのか?
生徒の顔も見たことがないのに、あの確実な答えを常に導き出すNaranjito先生なら、
もしかしたら、私のこの疑問をすべて解決してくれるのではないか、、、
日々少しずつ私はそう思うようになって行ったのです。

ペパの理論クラスにやってきたNaranjito先生は、ほんの30分間ほどでしたが、
カンテを学ぶ私達にご自身の経験を面白おかしく話して下さいました。
実は私達1998年に入学したカンテの生徒達が、この学院でのカンテの一期生。
それまでNaranjito先生が理論を教えていたのは、ギターと踊りの生徒たちでしたから、
Naranjito先生も色々な話しをしたかったのでしょう。

手術後すぐであったので、まだ体力があまりなく疲れたと教室を後にするNaranjito先生を見た時、
私はたまらずに教室を飛び出し、階段の所まで先生を走って追いかけていました。

”Naranjito先生。私、カンテがちっともわからないんです。
 でも、先生ならきっと、こんな私にもわかるように教えて頂けると思います。
 いえ、世界できっとただ1人、私を歌えるように出来るのはNaranjito先生だけなんです。
 お願いします。私にカンテを教えて下さい。”

”君、マヌエラ(私のスペインでの呼び名)だよね。娘から話しはよく聞いているよ。
 マヌエラの気持ちは嬉しいけど、僕は胃がんの手術を受けていて、
 もう大きい声は出せないし、正しい音程も出せない。歌を教えるなんて無理なんだ。”

”Naranjito先生。
 歌わなくたって先生は出来ます。私だけじゃなく多くの生徒がきっとそう思ってます。
 私達が迷った時、困った時、アドバイスしてくださるだけでいいんです。”

”うーん、、、 とにかく今はこうしているだけでも辛いんだ。”

”体が大変なのに、引き留めて済みませんでした。どうぞ休憩して下さい。”

”体さえよくなれば、、、、”


その後、予定通り私は日本に帰り、
毎日、タブラオ出演、踊りの公演バックカンテと忙しく暮らしていました。
Naranjito先生に習えないなら、これ以上留学していてもしかたがないと思っていたのです。
そんなある日、スペインの友人から1通の手紙が来ました。
Naranjito先生が新年度からカンテを教え始めたと言うのです。
私はあせってアルバイトを増やし、タブラオのレギュラーなど日本で受けた仕事を全部人に譲り、
翌年1月からはじまるカンテスペシャルコースに駆けつけました。

約半年ぶりに学院の中庭で再会したNaranjito先生は、私の顔を見るとこんな事を言いました。
”君の為に痛む体に鞭打ってカンテの先生はじめたのに、どうしてすぐに来なかったの?”

その後、実際にNaranjito先生に教わった日々は約半年ほどととても短いものでした。
それでもセビリアにいられる間は、Naranjito先生のすべてのクラスに参加させて頂き、
私の長年の悩みや疑問は、ほろほろとほどけるように解決して行ったのです。

Naranjito先生に習い始めて1ヶ月半ほどたったある日、レッスンでポロを歌った時の事です。
”マヌエラ、君は今日はじめてフラメンコを歌ったね。自分でもわかるでしょ?”と、
Naranjito先生は静かにほほ笑みながら仰いました。

Naranjito先生にお世話になって3か月が過ぎようとしていた頃、
ギターのスペシャルコースの生徒達の間で不思議な噂が流れました。
”Naranjito先生とマヌエラは、何かフラメンコを聞くと、全く同じ感想を言う。”
何人ものギタリスト達が面白がって、何かコンサートがあるたび、新しいCDが出るたび確認しに来ました。
そして、その噂は真実となっていったのです。

もっと教えなければならない事があるとNaranjito先生に強く引き留められたのですが、
私は残念ながら経済的にできず、たった半年でやむなく帰国しました。
その翌年も、ほんの短期間だけでもセビリアに行き先生にお世話になり、
その又次の年も少しでも勉強したいと短期間セビリアに行った時に、
あの悲しい別れが待っていたのです。


Naranjito先生のお葬式の1週間ほど後の事でした。
久しぶりにフラメンコ芸術学院に顔を出すと、先生の娘のペパに呼ばれました。

”あの後、家族会議をしたの。
 これでNaranjitoの名前がなくなっちゃうのは勿体ないって事になったの。
 ねえ、日本でも師匠の名前を弟子が継ぐって言うのあるでしょう?
 マヌエラ、あなたがNaranjitoの名前を使うことに決まったのよ。”
ペパは、話しだすと同時に涙をぼろぼろこぼし、私を強く抱きしめていました。

この話しを聞いた時は、私も一緒に号泣してしまっていた事もあり、
ペパが意味する事がよくわかっていませんでした。
この時の私は、Naranjito記念カンテ教室を開いたり、Naranjito追悼コンサートをやったり、
そういう方法でNaranjitoの名前を消さないようにして行くことを託されたんだと思って返事をしたのです。

”わかったわペパ。微力だけれど、私せいいっぱい頑張る。”
”有難う、マヌエラ、有難う。さっそく家族みんなに報告するね。
あなたの好きなタイミングで好きなように使いなさいね。”


このもう1週間くらい後の事でした。
日本に帰る挨拶をしに学院に行った時、今度は学院長先生に呼ばれました。

”君がNaranjitoを継ぐ事になったって、ご遺族から学校側に話しがあったんだよ。”

”はい、ペパに聞きました。私の日本の教室をNaranjito記念カンテ教室に変えようと思います。”

”そうじゃないよ。マヌエラがすることはね。”

”はい?”

”君自身がNaranjitaを名乗って、フラメンコ歌手として活動するってことだよ。”

”ええー!!!” あまりにもびっくりした私はそのまま地面に膝からくづれ落ちました。
全身が震え、大粒の涙がとめどなく溢れだしたのです。
”そんなの無理です。 だってだってものすごい偉大な名前だし、私はひよっこだし外人だし。”

”そうだよ。とてつもなく大きい名前だ。よく考えてしっかり計画しなさい。いいね。”

その場から立ち上がるのに、どれだけの時間がかかったでしょうか。
気がつけば私は友人数人に抱えあげられ、椅子に座らされ、背中をなぜられていました。


あれから、9年近くの日々が流れましたが、
もちろん私の歌がNaranjitaを名乗るのに足りている訳もありません。
Naranjito先生がどうしても教えたい事があると仰っていた事がなんなのか、
それすらもいまだにわかってはいません。

Naranjito先生が日々なさってらした努力ですら、今の私には出来てはいません。

それでもNaranjita を名乗って歌っているのは、いつかそうなる日の為にと努力を続ける事を、
自分自身に戒めているのです。

私が年をとり、いつか本当に歌えなくなるその日まで、Naranjitaを名乗り私は歌い続けます。

そしてその日が来たら、この名前をご遺族にお返しするつもりです。
Naranjito先生のお子さん達にはフラメンコ歌手は生まれませんでしたが、そのお孫さん達の中には、
もしかするとおじいちゃま譲りの素晴らしい声と感性の持ち主が生まれるかもしれません。
もしかすると、その又ひ孫さん達の中に、玄孫さん達の中に、、、きっと。


2011年1月 Manuela la Naranjita